ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森
未刊詩集『白へのオード』 【2】 むらさきの時 

『白へのオード』十四の散文詩と四つの断章

 

  【2】むらさきの時 

 

むらさきの時を抱いた彼女の心を、一言で言い表すことなどできただろうか。というよりそれは、すでに彼女の一つのまなざしであり、目覚めと眠りのはざまに幾度もよみがえり、より一層鮮やかに燃え立った。

それを手の中にに摑まえてしまうことができるなどとは思っていなかったし、つまり「欲望」という名の下で、灰となり移ろってゆくよりは、生きている彼女の中で鮮やかなその色のままにあることを、彼女は望んでいたにすぎない。

それは「彼」という、他の人々と一人の人間を分かつ、一つの名前と顔と声と体と髪と表情と、幾つかの癖と固有のDNAと、過去と未来に織り込まれてゆく「今」を持つ、誰かと置き換えることは、可能ではあったが、けれど必然であっただろうか。

その心の有様を、例えば恋とか愁いとか惑いとか、耳慣れた器で縁取ることはできたとしても、だからといって、燃え立つあのむらさきの時を、彼女の中から消し去ってしまうことはできただろうか。

(何事もなかったかのように 日々は過ぎていくだろう

 降り積もってゆく微細な塵の ざわめきのなかを)

彼女は何かを恐れているのだろうか。その心は、グラスに浮かぶひとかけらの氷のようにも冷たいのだろうか。たぶん、彼女は知り過ぎている。あるいは、彼女が知っている以上のことは、何も知らなすぎる。

(一つの名を呼ぶに耐えうるほどには)

その色は、限りなく彼女を立ち止まらせた。

告げられず遂げられぬ思いの悶えのように、彼女の柔らかな肌の下の、温かな血の青いめぐりのように。揺らめくむらさきの焔のかたわらで、流れていったのは、けれど「時」ばかりであっただろうか。

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