ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森
『旅する男の物語』【6】名づけられたものと名づけえぬもののはざまで

                       ――アイルランド行

 

空と草原のはてしない裂け目の中に、数え切れないほどの石の柱が立っている。あるいは、天への階段の崩れ落ちた欠片が、大地の哄笑のように、見渡す丘の至る所に散らばっている。

それは大地から生え出した巨大な夢の石化であり、あるときは置き忘れられた墓のようにも見え、あるときは蹲る祈りの背中のようにも見える。その丘の一つの、空に剥き出しにされた椅子の上では、円卓の騎士たちの伝説が、善と悪の終わることのない円環のように、今もなおまことしやかに語り出されているのだろう。振り返れば、耀く夕陽の中で佇む石の群れは、踊る子どもたちの影の輪となり、その影の一つ一つが、大地の洞穴への入り口となって、残された微かな光を吸い込んでゆく。やがてそこに広がってゆくのは、地の底から戻れなかった人や物たちの、獣のような身じろぎだろう。

太古から吹いてくる長い腕のような風の中に立ちながら、旅する男が耳を澄ましていたのは、現れては消えていった彼らの〈声〉の、微かな残響ではなかったのか。それはかつてそこで生きていた人たちの〈時間〉であり、〈血の記憶〉の匂いであり、人々の〈名〉で織りなされた〈物語〉なのであるけれど、それはまた、時間という巨大な網の目からすり抜けていこうとする、影亡き営みの跡であったのかもしれない。

スケリグ・マイケル、ダブリン、タラの丘、ウエールズ、アラン諸島、ウインチェスター‥‥‥‥。男が旅していたのは、そのように呼ばれていた土地であるとともに、そのどこでもない〈どこか〉であり、名づけられたものと名づけえぬもののはざまであったのかもしれない。

 

四方を窓で囲まれた部屋には、微かな温かみが漂い始める。夕暮れの空を鳥の影が過り、眠る女の夢の中では、奇怪な石の群れが羊のように草を食んでいる。

| 未刊詩集 | 16:23 | - | trackbacks(0)
『旅する男の物語』【5】白い卵と眠れる巨人たちの夢

                    ――イースター島行――

 

太平洋に浮かぶその島に吹きつける風は

荒々しい息吹だった

この星が靄のようなガスと雲に包まれ

火の山の時や 氷と巨獣たちの時を過ごして

羊水のような海を湛えた時から

彗星の長い尾のように渦巻き めぐっている風

妻と二人

海に浮かぶ花びらのような島々のあとで訪れたこの島には

数え切れないほどの巨大な石の像たちが眠っていた

その島には

石となった巨人たちの眠りが

唐突な夢のように

山肌に 海辺に 道の脇に

小石でもあるかのように ごろごろと転がっていたのだ

ある像は頭だけを出したまま

あるいは胸から上だけで あるいはうつ伏せに倒れたまま

なかには石切り場で切り出されることなく眠っている像さえあった

まるでメドゥーサの呪いにかけられた人の群れのようだった

生きていた時の面差しを残してたたずむ彼らの

けれど彫りの深い顔の口は固く閉ざされ

眼孔に眼(まなこ)は失われていた

その上を三つの山の火山灰は覆い

草は羽毛のように葉と根を茂らせていた

かつて白い卵のような両眼を嵌めた時

かれら巨人たちは自分の足で歩き出したという

その眼から発される「マナ」は災いを退け

村人の暮らしを守ったという

けれどいつの日か眼は失われ

内側に向かって深く閉ざされた闇の中で

時は眠れる蛇となって太いとぐろを滑(ぬめ)らせる

その奥で失われた彼らの言葉

ロンゴロンゴ文字の祈りや歌が地鳴りとなって唸り

アナカイタンガタの洞窟では

遠い生き物たちが松明の火影でうごめく

 

かつてこの島に西の果てから船が流れ着いた時

オロンゴの崖から次々に飛び立っていったのは

この島に住んでいたという鳥人たちではなかったのか

その時 島に眠る巨人たちのうめきとも叫びともわからぬ地響きが

砕け散る波濤のように空の壁に轟いて

紺碧の海の上にいくつもの渦巻きを描いていったのではないか

 

崖に飛び交うグンカンドリの数知れぬ白い卵の殻の中で

飛び立ったまま戻ってくることのなかった

鳥人たちの夢がまどろんでいる

その島にあるという「世界の臍」から

忘れられた言葉たちがゆっくりと這い出してゆく

その時まで

 

 

 

 

 

| 未刊詩集 | 11:58 | - | trackbacks(0)
『旅する男の物語』 【4】〈そのようなもの〉として

小型のセスナ機は幾度か旋回し 夕日の中 砂漠(パンパ)に刻まれた光景を浮かび上がらせる 束ねられては広がってゆく線や台形や渦巻きの幾何学模様 巨大なサルや蜘蛛やハチドリや人のようなもの――ナスカ・ライン 古代の謎は 謎として 今なお 人々を惹きつけてやまない 砂漠に描かれたそんな地上絵も 旅する男にとっては 通り過ぎてゆく時間に出会った いくつもの顔の中の一つでしかないのかもしれない

 

光と闇

輝かしいものと凍りつくようなもの

愚かしさと崇高さ

心躍るようなものと 耳を覆いたくなるようなもの

熱帯の密林とそそり立つ白い峰々を持つこの大陸の

大聖堂のステンドグラスと地下室に据えられたギロチン

マヤの精緻な文字盤やインカの黄金の首飾りと

セノーテの淀んだ水や砲弾の雨

それら相反するようなすべてが

男には同時に 同じものとして見えたのだろうか

渡る蝶や鳥の群れのように

絶え間なく人々の浪が漂う この星の上で

世界を見るということは

〈そのようなこと〉なのだろうか

女は思い出す

かつて幻影の蜘蛛の糸に絡めとられて

山の中を何年も彷徨っていたある男の話を

いま目の前で語る初老の男と

画面の向こうで妻や娘と連れ立つ紳士風の男

そしてアンデスの奥に消えた若者

かれらが仮に同じ人間であるとして

すべては泡のように現れては消えてゆく幻に近しいもの

ひとつの顔の奥にいくつもの顔を持つ

あのアフリカの仮面のような

変転するカオスなのではないか

この星のいたる所に足跡を残した男にとって

滑らかな薄い膜で覆われたこの星に生きるということは

剥き出しにされたさまざまな芳香と味わいの前に

開かれてある ということなのではないだろうか

旅する男の言葉からは

そんな〈世界〉が無花果の実のように溢れ出している

というより

小柄な男の体を通して

海の向こうの山々や空や町が語り出しているのだ

とさえ女には思える

脈打つ肉体の 脳髄という半円の中で

この星の時間が 螺旋階段となってめぐってゆく

海と陸と地下の地層の中を

地図の無数の線と点は 迷路となって入り乱れる

見開かれた男の瞳の奥に女は見る

灰色の 海馬の水面に

記憶の粒子の数え切れない水脈が流れ込んでは

地表の皴のような漣を立てていった その跡を

 

暮れてゆくパンパの薄闇では

風の気配だけがあおくうごめいている

 

| 未刊詩集 | 11:53 | - | trackbacks(0)
[『旅する男の物語』 【3】渦巻く耳とハチドリの羽ばたき

 ――ある夜、T氏が語った。

 

3 渦巻く耳とハチドリの羽ばたき

 

その日チチカカ湖の湖面は

ゆらめく銀を溶かしたように凪いでいた

標高四千メートルの 聳える峰の上に広がる湖

雲の群れを端に吹き払った空は澄み渡り

葦(トトラ)の上に 人々の頬に 強い陽射しは降り注いだ

 

微かな漣だけが過ぎてゆく

その静けさのなかでは

遠い街の喧騒も 嘘のように霞んでゆく

大使公邸の白い塀で触れた銃弾の痕や

スペイン人たちが建てた荘厳な聖堂やキリスト像

そしてその地下に広がる

虐げられた原住民たちの悲鳴の黒い残響も

青と緑のアラベスクの壁や

博物館に飾られた鮮やかな土器の数々

花や果実 クイの丸焼きに彩られたテーブルも

すべては 目の前の湖面を過ぎてゆく

微かな風が立てる漣のような 一瞬の幻

ひとつの時から放たれた

幾本もの矢の跡 なのではないか

かつてこの湖畔に

髭を生やした白い神がたたずんだときから

世界は目に見えない螺旋の輪を

描き続けてきたのではないのか

アンデスの峰の間に浮かぶ都市に

かつて生きていた人々の祈りの声や

死の静寂もまた

遠いこだまとなって

その面で 銀色に揺れているのだとしたら

 

語る男の声は

見えない点となって

夜のなかへ消えていった

眠る女のやわらかな三半規管の渦巻きの奥では

一羽のハチドリが瑠璃色となって羽ばたいていた

| 未刊詩集 | 15:06 | - | trackbacks(0)
『旅する男の物語』 【2】カリビアンブルーの風に吹かれて

     ――ある夜、T氏が語った

 

2 カリビアンブルーの風に吹かれて

 

〈わたしは北の小さな村の族長、勇敢だと言われた男の息子である 森が 町が どうしてこんなに静けさを増してゆくのかわからない  降り注ぐトナチィゥの数え切れない黄金の腕と 空(カン)を渡ってゆく月と星よ 信じがたいことだが どうたらわたしは あたたかい血を滴らせた 一個の首であるらしい あのペロタが始まるとともに 聖なる球を追いかけては蹴り 隣村の若者たちと競ったのだったが 夜になれば灯りが灯され 夜が明ければ陽が照りつけ それが果てしなく続くとも思われ 汗が涙のように頬を流れ そのうち駆け回るわたしたちの力も尽き果ててゆき とうとうあの硬いゴムの球をわたしは地面に落としてしまった それというのも 三日目の日の出とともに見上げた球技場の四角い空 羽ばたいてゆく一羽のケッツアルの瑠璃色に耀く尾羽根が 明けて行く空にゆらゆらと吸込まれてゆき その時 ジャガーの黒い口がかっとわたしに向かって牙を剥いたのだとも思われ 聖なる球はわたしの頭の上を掠め去っていったのだ 雷(いかずち)のように 周りで湧き上がる 隣村の勝利を祝う喚声 勇敢なる長の息子であったわたしは  そうしてツォンバントリの棚の上で首だけとなって 大地に赤い血を滴らせているのであるが 白い花となったわたしの魂はあれからどこにいったのか 深い森をめぐる風よ 柔らかなケッツアルの羽となって 懐かしい人々の夢の中で羽ばたいておくれ そして旅立っていった白い花の行く末を わたしの代わりに見届けておくれ〉

 

カリビアンブルーの風に吹かれて

木の下のハンモックが揺れている

ソーダ水のように透き通ってゆく空と海の果てから

白い髑髏が

ゆっくりと語り出してゆくような

そんな午後である

| 未刊詩集 | 09:13 | - | trackbacks(0)
『旅する男の物語』(1)切り立つ岩の上の踊る壁画――タッシリー・ナジュール行

  ――ある夜 H氏が語った。

 

1 切り立つ岩の上の踊る壁画

         ――タッシリー・ナジュール行

 

その旅は一冊の本から始まった

あるいは本の中の数枚の写真で見た

岩壁に描かれた牛や人 海月や樹の絵から

それは 家族や生き物との人々の暮らしであり

よろこびであるとともに

眼に見ないものへのおそれのようでもあった

偶然手にしたそれらの絵にあらがいがたく吸い寄せられるままに

男は巨大な砂漠の深みへと進んでいった

えいえんのような乾いた風と灼熱の時間のあと

うねる大地は朱く染まり

夜ともなれば月と星が眼差しを冷やしていった

そうして サハラ砂漠の真ん中

切り立つ岩の台地の上に

男はようやく辿り着いたのだ

かつて緑豊かであった地面はむき出しとなり

乾いた川底が亀裂のように縦横に走る

奇怪な岩の森に

(そこでは夢の中で目覚めるように時間が過ぎていった

 幾億の星々が降り注ぐ夜の底では

 黒い肌の男が吹く横笛は一本の糸杉のように響き

 風のうねりとともに 岩の肌を這いあがっていった)

男はそうやって

巨大な台地の岩の森を彷徨い

八千年ものあいだ刻まれ続けてきたという

壁画の群れと出会ったのだ

それはレイヨウであり サルやキリンや象たち

そして狩りをし 耕し 戦う人々

踊り 交わって産む人であり

「白い巨人」でもあった

 

この島の

波止場の石段から見つめる海の その向こうに

それらは本当にあったのだろうか

自分は百五歳だと語ったトゥアレグ族の長ジャブランは

いまもまだあの大地を旅しているのだろうか

男はときおり

部屋に無造作に置かれた

木や布でできたかの地の様々な仮面を眺める

男がたどる温かな夢のかけらのような

それら面の一つ一つを手に取り 指でなぞる

そして時間の裂け目から聞こえてくるような

あれらの不思議な響きの言葉を呟いてみる

 

砂漠に切り立つ台地の深い静けさの上では

一匹のカメレオンが身をくねらせている

遠い星空に

湧き出る泉のような線や形たちがみちてゆく

 

 

 

 

 

 

 

| 未刊詩集 | 14:48 | - | trackbacks(0)