ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森
『アンコール・ワットな日々』【29】象と蝶と四面仏――アンコール・トムへ

 バイヨン寺院を後にして、徒歩でアンコール・トムの中をめぐる。あらてめて空を見上げれば、耀くように晴れ上がった空。その青と、遺跡のグレーと木々の緑とのコントラストは、それだけですでに鮮やかだ。この空をバックに、この旅一番のお気に入りの写真を撮った(と、私が思った)のは、パブーオンでのことだ。王宮の南側にあるヒンドゥー教の寺院で、11世紀ごろにウダヤーディテーヤヴァルマン2世によって建てられた。パブーオンとは「隠し子」の意味だという。長さ172mの空中参道は歩くことができないが、建物の修復は進んで、上の回廊まで昇ることができる。

ピラミッド型の寺院の三つある回廊の最上部は、人ひとりが立って歩けるほどだ。その回廊が囲む中央祠堂にそそり立っていたはずの、塔の先端部分はほとんど崩れ、扉の枠だけが残されている。その向こうに、まるで額に嵌められた一枚の絵のように、耀くような青空が見えている。千年の時を経て、今自分たちの前にある遺跡が、シュールでありながらリアルな絵のように見えてくる。私たちがそんなふうにしてゆっくり過ごしていたせいだろう。順路の最後の階段の下では、待ちかねたような顔をしたMさんが立っていた。

 アンコール・トム城内にある、宮殿跡の「ビミアナカス」や女池・男池を見た後、林の中にある「ブリア・バリライ」に行く。この辺りまで訪れる観光客は少ないという。自然の浸食は受けているが、建物はそれほどひどく崩れてはいない。自分たち自身が観光客であるにもかかわらず、観光ずれしていないその静かさに正直ほっとする。

 アンコール・トムの舗装されていない道をバンで移動して、死者の門にも案内してもらったが、ここもまた静かだった。門の手前にはお決まりの入場証チェックの係員が三、四人手持ち無沙汰にいるばかりで、私たち以外に観光客はいない。城内に五つある門のうち、参道の両側に石像の並ぶ賑やかな南大門から私たちは入ったが、西大門は住民の生活道路にもなっているという。勝利の門と死者の門は東側にあり、死者の門は死者たちが通る門だという。その静けさはまさにその名としっくりくるもので、門の壁面には見事なアゲハ蝶が羽を休めていた。門を通り抜けてみると、草むらのそこかしこにも黄や白の小ぶりな蝶が群れている。雨季が始まり、緑も濃くなり、気温も上がって、そんな虫たちのパラダイスが広がっていたのだろうか。その日の午後に訪れたアンコール・ワットの周辺でも、数十匹はいるだろう蝶の群れを見かけた。

 バイヨン寺院の井戸から発見された大きな仏像「ラップナム」を見上げた後五つの寺院からなる小寺群である「プリアビトゥ」に行く。蓮の形をしか結界石のあるという寺院跡などいくつか回るが、それらは崩壊が甚だしい。そして、朝から動いていた私たちの体力もそろそろ限界に近づいてきたのか、残念ながらもはやその辺りになると、遺跡が大きな石の山のように見えてくる。

 とはいえ、象のテラスとライ王のテラスのある広場に出て、せっかくなのでレリーフなどを見て回る。読んではいないが、三島由紀夫は「ライ王のテラス」という小説を書いているようだ。二〇世紀初頭まで土に埋もれていて、それらの保存状態はいいということだった。しかし、昼近くで、暑さもうなぎ登り。「見る」という欲にも限界を感じて、早々にクーラーの効いたバンに乗り込んだ。カンボジアの人々にとって、昼過ぎのクールダウンが必要であるということを、身をもって感じる。ホテルに戻って帰りの荷造りを済ませた後、午後のアンコール・ワットでの時間に向けて体を冷やす。そして、旅の終わりの時間は、Mさんのガイド抜きで、娘と二人、今回三度目となるアンコール・ワットでゆっくりと過ごす。

 

 

 

| エッセイ | 20:27 | - | -
『アンコール・ワットな日々』【28】

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                                            photo by J.Kawai

 

| エッセイ | 20:02 | - | -
『アンコール・ワットな日々』【27】象と蝶と四面仏――アンコール・トムへ◆

 象から降りて正面よりバイヨン寺院の中へ入る。第一回廊の周りのレリーフはきれいに彫りが残されているが、モチーフが少しユニークである。乳海撹拌やガルーダに跨るヴィシュヌ神などの神話伝説や、戦闘や凱旋の絵に混ざって、そこでは当時の人々の生活も垣間見るおとができる。商売や狩りをする人々、闘鶏をする場面や、出産をする様子、チェスのような遊びに興じる人々などの日常生活が、分かり易く描かれている。当時生きていた人々の生活が、王や神にまつわるモチーフと同列に並べられているような印象を受ける。当時、王の寺院にレリーフを彫ることは、功徳として推奨されていたことであったが、そこにはまた当時の人々の心のあり様も透けて見えてくるようである。

 観光客でひしめくバイヨンの回廊を、レリーフを見ながらめぐっつていくと、上部テラスへ出る。そこには、塔の四面に顔の彫られた観音菩薩像がある。全部で49基の塔、173(かつては196)体の、様々な表情をした菩薩たちの顔だ。Mさんが指差したその中の一体の、肉厚の唇に湛えられたクメールの微笑み。瞳は閉じられておらず、伏し目がちだ。そのせいなのか、それらの塔を前にすると「眼差し」のようなものを感じてしまう。それほどにその穏やかな顔には慈愛以上の何か、現世のエネルギッシュさに溢れているような印象を受ける。それはまた、チャンバ軍を破ったジャヤヴァルマン7世によって治められた、時代のエネルギーでもあっただろうか。大乗仏教に帰依した7世の宇宙観を反映させるかのように、それらの顔が放つ眼差しは周囲の民の暮らしの上にあまねく注がれたことだろう。アンコール・ワットが地上に築かれた天界であったとするならば、アンコール・トムの眼差しが願っていたのは、王朝とともに生きる人々の、地上での平安の永続ではなかったのか。

| エッセイ | 12:15 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【26】象と蝶と四面仏――アンコール・トムへ

 シェムリアップでの最後の日。二日目夕方のスコール以外、好天に恵まれていたが、この四日目は、なかでも青空が輝くような快晴だった。

 この日は朝から観光した後、夕方には空港に行かなくてはならない。Mさんの提案で、午前と午後にまたがっていたアンコール・トム遺跡での時間を、午前中に短縮して、その分午後は私たちの好きな所に行きましょう、ということになる。Mさんはたぶんトレンサップ湖周辺の自分の育った町なども案内したかったようだ。過去の遺跡を見るのもいいけれど、そういった水上生活をしている集落を訪れることは、現在のカンボジアの姿を知る上で、貴重な体験になったかもしれない。けれども、ショートステイの旅ではあるし、それはまたの機会にでも、ということで、午後はやはりアンコール・ワットで過ごすことにした。トゥクトゥクにも乗ってみたかったので、Mさんの知り合いの運転手さんに連絡をとってもらったが、あいにく午後はその人の都合がつかなかった。

 アンコール・トムは12世紀後半、アンコール王朝の絶頂期を統治したジャヤヴァルマン7世によって建てられた都城で、「トム」は大きいという意味で、アンコール・ワットのおよそ5倍の大きさがあるという。建築様式としては「バイヨン様式」に分類される。都城の中心である仏教寺院の上部テラスにある、巨大な顔を持つ四面仏塔で有名だ。

 高さ8メートルのラテライトの城壁に囲まれ、その外側には環濠がめぐらされている。1辺3キロメートルある都城は5つの門を持っている。その中の南大門の前の参道の、右側には阿修羅像、左側にはデーヴァ(神々)像が並び、その像たちがナーガ(蛇神)で綱引きをしている。それらの像の頭だけが白っぽい灰色だったりするのは、内戦時に壊されたために、その後修復したのだという。

 南大門から歩いて進むとバイヨン寺院が見えてくる。回廊の外側のテントの下では遺跡の修復作業が行われている。「JASA」という日本の遺跡救済チームだという。バイヨンにはすぐに入らずに、ツアーの目玉でもある「象に乗る」ため、木陰で待っている1頭の象の所に行く。象使いの人は赤い服に鍋のような帽子をかぶっている。象に乗るの私も娘も初めてで、階段を昇って、象の背中に載せられた椅子におそるおそる座る。象使いのおじさんが象の首に跨り、足の指を大きな耳にかけると、その巨大な動物はゆっくりと動き出した。手に調教棒のようなものも持っているが、耳に載せたその足の動きで象を操っているようだ。

 バイヨン寺院の周りをゆっくりと象の上から眺める。象に乗った私たちは周りの観光客からはちょっと珍しがられて、スマホなどで写真を撮られた。降りる間際、おじさんの赤い服の背中にチップと書いたポケットがあるのが眼についたので、心ばかりだが渡した。意外だったのか、「チップ!」と言って笑われた。余談だが、娘はおじさんが足で象を操りつつ、ずっと指で自分の鼻をほじっていたのが気になったらしい。

| エッセイ | 11:33 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【25】森とともに生きる――タ・プローム

 昼ごはんはソカ・アンコールホテルで食べる。ミシェランの三ツ星ホテルにランキングされているそうだが、「もと刑務所でした」とのMさんの言葉に、目の前のきらびやかなホテルの室内や中庭と、刑務所の薄暗い空間が頭の中で二重写しになって、正直なところ、日本食の味はあまり印象に残らなかった。

 その後は、ホテルに帰ってクールダウンする代わりに、オプショナルで冷房の効いた国立博物館へと行った。首都プノンペンにも国立博物館があるが、今回の日程には入っていない。けれども、シェムリアップのほうも結構見応えがあり、遺跡群から発掘された石像やレリーフ、千体の仏像などを間近に見ることができた。

 その後で訪れたタ・プロームは、今回娘が行きたかった場所の一つだろう。12世紀後半、ジャヤヴァルマン7世が母のために造った霊廟寺院で、ベンメリアのように植物に覆われたままの姿で残されているものの、ガジュマルの樹はより一層巨大で、遺跡に絡みついた根も太い。けれども、ベンメリアほどには崩壊していない印象を受ける。というよりも、もしもこれらの巨大な根を修復のために取り除いてしまったら、遺跡自体も崩れてしまうだろう。自然が遺跡を破壊しつつ支えている、あるいは、遺跡が森とともに共存している。その奇妙な有様は、凄まじいほどのインパクトがあるハリウッド映画『トゥームレイダー』(2001年)ともなり、Mさんも背の高いアンジェリーナ・ジョリーを町で見かけたそうだ。アンコール・ワットのように修復された遺跡も見応えがあるけれど、タ・プロームには自然と遺跡がせめぎ合いつつ共存しているような、不思議な魅力が感じられた。

 ちなみに、ガジュマル(榕樹)の巨大なものは、幹の回りが10メートルを超えるともいう。これ以上崩壊が進まないよう、新しい木は除去するなど、自然を整備するために遺跡群で働いている人たちもいるということだ。そんなふうに、私はMさんの説明を聞きつつ、娘のJはゆっくりと写真を撮っていた。彼女が思うがままに撮れるよう、速足でMさんと先に進んだりもした。けれど、Jからすれば、何でさっさと先に行くの?と、思っていたらしい。「タ・プロームでもっとゆっくりしたかった」と、後で言っていたJ には、かえって余計なお世話だったようだ。

 そして、その後に行ったオールドマーケットでの買い物で、彼女の不機嫌はさらに煽られることになる。Jは雑踏の中を市場の奥まで散策したかったにもかかわらず、Mさんが勧めてくれたのは市場入り口の「日本語が通じて、日本円の使える(そして、たぶん安全な)店」で、そこの女主人の横柄な態度にカチンときたようだ。夕食のカジュアルでお洒落なフランス料理店でもいくぶん曇り顔。けれども、日が暮れて、別世界のようになったパブストリートへ足を踏み入れた途端、私たちのテンションはハイになった。

 オープンテラスのパブが並ぶ夜の通りには、観光客が溢れ、にわかのお祭り騒ぎ。団体客より白人のカップルや家族連れが多いようだ。道端には露天の店も並び、市場で不満だったJも楽しんでいるようだ。『RED PIANO』の二階で、ソフトドリンクを飲む。頭の上では、壁に備え付けられたたくさんの扇風機が、昆虫の軍団のようにブンブン回っている。通りを挟んだパブの二階では、カントリミュージックのライブをやっていた。どこも窓を開け放しているので、結構こちら側でも臨場感にあふれてそれが聞こえてくる。「カントリー ロード テイクミー ホーム‥‥‥」誰でも知っているようなスタンダードな曲だ。ほろ酔い気分のままに、思わず私も一緒に口ずさんでいた。

 

| エッセイ | 21:55 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【24】


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                                         photo by J.Kawai

| エッセイ | 16:38 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【23】カンボジア平原を疾走して

 Tさんの運転する、疾走するバンにもどろう。

 道端ではパラソルを開いただけの店をときおり見かけた。日本の粽(ちまき)のように蒸した、棒状のモチ米のおやつなのだという。しばらくして通り過ぎた市場では、食料品のほかに、店頭に180ccのペットボトルが並べられていたが、中身はガソリンらしい。

 しばらくすると、平坦な平野の右手にぽっこりと山が見えてきた。遺跡建築に使われた砂岩の切り出し場であるクーレン山だという。その麓の丘陵地帯、標高70メートルの所にこれから行く遺跡はある。

 ベンメリア遺跡は五大遺跡の一つで、大プリア・カーン遺跡とアンコール・ワットを結ぶ盛土土手道の基軸上にあり、11世紀末から12世紀初めにヒンドゥー教の寺院として建てられたというが、碑文がなく、建築年代は諸説あるそうだ。クメール語で「蓮池」の意だが、残念ながら環濠は干上がっていた(これも、実は雨不足のせいだったのだろうか)。規模はアンコール・ワットと同じくらいで、十字回廊があり、三つの回廊が中央祠堂を囲む寺院形式だという。けれども、アンコール・ワットのような尖塔はなく、平面的に構成されているということだが、残念ながら修復はされていない。

 車を降りて歩き始めると、Mさんが草むらの中の「地雷を除去した」という看板に注意を促した。このように除去されている地帯もあるが、いまだ除去の処理の済んでいない地帯もあるという。

 木立の中の舗装されていない参道を進むと、南側の入り口の門が、象の鼻のような巨大な木の幹に覆われていた。「ガジュマル」という木ですぐに成長するのだという。回廊の壁などはかろうじて残っているが、中央祠堂はほぼ瓦礫に近い。観光用の木製の通用路が設えられていて、その上を歩きながらめぐる。石には苔が生え、蒸し暑さは熱帯のジャングルのようだ。崩れた石のあいだから、ナーガが首を擡げ、デヴァターが微笑む。ある意味では瓦礫に過ぎないのだろうが、アドベンチャー映画で観るような「密林の中に潜んでんで眠り続けている謎の遺跡」というイメージに正しく合致する光景が目の前に広がっていた。

 帰りがてら、やはり猛スピードのTさんの運転が、とある道でふいに停まった。小学生たちの下校時間なのだという。たしかにその建物の門からたくさんの子どもたちが出てきている。女の子はたいがい白いシャツに紺のスカートだが、男の子は白いシャツの下はジャージのズボンなどいろいろだ。靴はサンダルが多いようだ。昼ごはんを食べに家に帰るところで、自転車に乗って自分で帰る子もいれば、親がオートバイで迎えに来ている子も少なからずいて、門の外周辺はとても混み合っている。

「こういった学校や病院なども、海外からの支援でできているのです」とのMさんの言葉に、カンボジアという国の、一つの現実を目の当たりにした思いだった。その後で町なかにある病院の側を通り過ぎると、平屋建ての病院の周りには、オートバイが並んでいて、人々が出入りしていた。朝からたくさん並んでいるのだともいう。

 

 

| エッセイ | 12:09 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【22】カンボジア平原を疾走して

 三日目、シェムリアップから東北へ60劼曚描り、クーレン山の麓にあるというベンメリアへ向かう。

  舗装された道路の工事には、日本の自衛隊が関わったそうだ。この幹線道路とは別に、12世紀末から13世紀にインドシナ半島全体を覆うように栄えたアンコール王朝には、雨季でも通行可能な盛土による土手道がめぐらされていた。低地には石橋も架けられ、象部隊が移動しても壊れることなく、河川路とこの盛土土手道によって、アンコール都域と各地域は結ばれていたそうだ。『カンボジア 密林の五大遺跡』(石澤良昭・三輪悟著/連合出版)で石澤氏はその道を「王道」と呼んでいる。その王道がゆえに、シャムのアユタヤ王朝の侵攻によって首都アンクル・トムが陥落し、クメール帝国は滅ぼされたともいう。

 さて、シェムリアップを出てほどなくすると、長閑な田園風景が広がっていた。がしかし、猛スピードで土煙を上げながら走るTさんの運転は、とうてい長閑とは言いがたい。時速何キロくらい出していたのだろう。右側通行の道は舗装されてはいるが、中央線も側道もなく、次々とトラックを追い越し、トゥクトゥクやポリタンクを満載したバイクを追い越して、ぐんぐん走る。大人しそうなTさんの思いもかけない荒い運転に、車内から地元の民家の写真を撮ろうとしていた娘も、半ばあきらめかけている様子。それでも、そんな流れ去る車窓から掠め見た印象だが、民家は高床式が多く、家の前に供え物をした小さな祭壇を置いている家もある。平坦な田畑が広がっているが、全体に茶色く、まだ雨季の初めなので、これから稲が植えられるのだろうか。乾季を過ごしたせいか、牛はあばら骨が見えるほど痩せている‥‥‥‥。
 ところで、日本に帰ってだいぶ経ってから知ったことだが、私たちが行った2016年6月の前月5月に、カンボジアは数十年らいとも言われる干ばつにみまわれていた。雨季に入っても降雨量が少なく、牛がやせ細っていたのも、何も芽吹いていないような茶色い田畑が広がっていたのもおそらくそのためだったのかもしれない。「Mさんが言っていたよ」とはJの言だが、私は残念ながらその時に聞きのがしていたようだ。もし、それをちゃんと聞き留めていれば、カンボジア平原を疾走するバンの外の風景を、もっと違った感覚でとらえることもできたろうに。Mさんはトレンサップ湖の側に家があると言っていた。自国の窮状についてはあえて多くは語らなかったMさんだが、平和な国からのんきに観光旅行にやって来たような私たちに、本当はもっと伝えたいことがあったのかもしれない。昨年(2019年)もカンボジアは長期的な干ばつで、トレンサップ湖でもそれは発生し、農民や漁師が大きな被害を受けたようである。

 

                        (【23】に続く)

 

 

| エッセイ | 21:25 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【21】夕焼けとスコールのあとで

 クメール料理を食べていると、ステージの上では幕が上がって、宮廷舞踊アプサラダンスショーが始まっていた。

 踊りの前に、まずは古楽器による演奏があった。太鼓である「サムファー」と「スコム」、「コン・トム」という鐘、「ロニー・エク」(木琴)、「スラライ」(縦笛)といった五人編成で奏でられ、センターの奏者は柳楽優弥(やぎらゆうや)似のイケメンだった。そのうちにきらびやかな衣装を纏った美女が登場して、踊りが始まる。化粧をほどこした女性たちの顔は、目のぱっちりとしたキューピー人形のようだ。少し腰を落としつつ、腕から指先がくねくねとゆるやかに動いて、優美である。あれはスタイルの維持に相当よさそうだ、と感心しつつ眺めていたが、そのショーの間もスコールは続いて、ときおり雷鳴は響き、稲光がレストラン外の暗闇で光る。せっかくの楽の音も、屋根を打つ幾万という雨粒の音で打ち消されそうでさえある。踊りの演目は、伝統舞踊に始まり、歓迎の踊り、『ラーマーヤナ』の「ハヌマーン」の仮面劇や漁師たちの踊り、王朝時代のアプサラダンスなどバラエティーに富んでいた。

 ところで、ポルポト時代にはほとんどの踊り子や教師が殺されたともいい、シェムリアップでは、一人だけ生き残った教師がこの伝統舞踊を復活させたそうだ(『アンコールのモナリザたち』草の根出版会/BAKU斉藤著)。幼子も抱えて、楽団とも踊り子とともにダンスを復活させたというこの本の記述を裏付けるかのように、私たちの側、舞台の前には少女に抱かれた赤ちゃんがいて、舞台上ではその子へ笑顔を送りつつ舞う女性の姿があった。その女性がしばしばこちらの方にとても柔らかな笑顔を向けてくれると思ったら、それはその子に向けての母親としての笑顔だったようである。その女性が天女の舞いを踊り終わるまで、その子は二人の少女にあやされながら、ぐずることも泣くこともなかった。 

| エッセイ | 23:26 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【20】


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| エッセイ | 12:01 | - | -