ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森
『アンコール・ワットな日々』 【22】カンボジア平原を疾走して

 三日目、シェムリアップから東北へ60劼曚描り、クーレン山の麓にあるというベンメリアへ向かう。

  舗装された道路の工事には、日本の自衛隊が関わったそうだ。この幹線道路とは別に、12世紀末から13世紀にインドシナ半島全体を覆うように栄えたアンコール王朝には、雨季でも通行可能な盛土による土手道がめぐらされていた。低地には石橋も架けられ、象部隊が移動しても壊れることなく、河川路とこの盛土土手道によって、アンコール都域と各地域は結ばれていたそうだ。『カンボジア 密林の五大遺跡』(石澤良昭・三輪悟著/連合出版)で石澤氏はその道を「王道」と呼んでいる。その王道がゆえに、シャムのアユタヤ王朝の侵攻によって首都アンクル・トムが陥落し、クメール帝国は滅ぼされたともいう。

 さて、シェムリアップを出てほどなくすると、長閑な田園風景が広がっていた。がしかし、猛スピードで土煙を上げながら走るTさんの運転は、とうてい長閑とは言いがたい。時速何キロくらい出していたのだろう。右側通行の道は舗装されてはいるが、中央線も側道もなく、次々とトラックを追い越し、トゥクトゥクやポリタンクを満載したバイクを追い越して、ぐんぐん走る。大人しそうなTさんの思いもかけない荒い運転に、車内から地元の民家の写真を撮ろうとしていた娘も、半ばあきらめかけている様子。それでも、そんな流れ去る車窓から掠め見た印象だが、民家は高床式が多く、家の前に供え物をした小さな祭壇を置いている家もある。平坦な田畑が広がっているが、全体に茶色く、まだ雨季の初めなので、これから稲が植えられるのだろうか。乾季を過ごしたせいか、牛はあばら骨が見えるほど痩せている‥‥‥‥。
 ところで、日本に帰ってだいぶ経ってから知ったことだが、私たちが行った2016年6月の前月5月に、カンボジアは数十年らいとも言われる干ばつにみまわれていた。雨季に入っても降雨量が少なく、牛がやせ細っていたのも、何も芽吹いていないような茶色い田畑が広がっていたのもおそらくそのためだったのかもしれない。「Mさんが言っていたよ」とはJの言だが、私は残念ながらその時に聞きのがしていたようだ。もし、それをちゃんと聞き留めていれば、カンボジア平原を疾走するバンの外の風景を、もっと違った感覚でとらえることもできたろうに。Mさんはトレンサップ湖の側に家があると言っていた。自国の窮状についてはあえて多くは語らなかったMさんだが、平和な国からのんきに観光旅行にやって来たような私たちに、本当はもっと伝えたいことがあったのかもしれない。昨年(2019年)もカンボジアは長期的な干ばつで、トレンサップ湖でもそれは発生し、農民や漁師が大きな被害を受けたようである。

 

                        (【23】に続く)

 

 

| エッセイ | 21:25 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【21】夕焼けとスコールのあとで

 クメール料理を食べていると、ステージの上では幕が上がって、宮廷舞踊アプサラダンスショーが始まっていた。

 踊りの前に、まずは古楽器による演奏があった。太鼓である「サムファー」と「スコム」、「コン・トム」という鐘、「ロニー・エク」(木琴)、「スラライ」(縦笛)といった五人編成で奏でられ、センターの奏者は柳楽優弥(やぎらゆうや)似のイケメンだった。そのうちにきらびやかな衣装を纏った美女が登場して、踊りが始まる。化粧をほどこした女性たちの顔は、目のぱっちりとしたキューピー人形のようだ。少し腰を落としつつ、腕から指先がくねくねとゆるやかに動いて、優美である。あれはスタイルの維持に相当よさそうだ、と感心しつつ眺めていたが、そのショーの間もスコールは続いて、ときおり雷鳴は響き、稲光がレストラン外の暗闇で光る。せっかくの楽の音も、屋根を打つ幾万という雨粒の音で打ち消されそうでさえある。踊りの演目は、伝統舞踊に始まり、歓迎の踊り、『ラーマーヤナ』の「ハヌマーン」の仮面劇や漁師たちの踊り、王朝時代のアプサラダンスなどバラエティーに富んでいた。

 ところで、ポルポト時代にはほとんどの踊り子や教師が殺されたともいい、シェムリアップでは、一人だけ生き残った教師がこの伝統舞踊を復活させたそうだ(『アンコールのモナリザたち』草の根出版会/BAKU斉藤著)。幼子も抱えて、楽団とも踊り子とともにダンスを復活させたというこの本の記述を裏付けるかのように、私たちの側、舞台の前には少女に抱かれた赤ちゃんがいて、舞台上ではその子へ笑顔を送りつつ舞う女性の姿があった。その女性がしばしばこちらの方にとても柔らかな笑顔を向けてくれると思ったら、それはその子に向けての母親としての笑顔だったようである。その女性が天女の舞いを踊り終わるまで、その子は二人の少女にあやされながら、ぐずることも泣くこともなかった。 

| エッセイ | 23:26 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【20】


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| エッセイ | 12:01 | - | -
『アンコールワットな日々』 【19】夕焼けとスコールのあとで

 夕食のレストランへと急ぐバンの中で、ぽつぽつと振っていた雨はやにわにスコールとなった。空から滝が流れ落ちているようだ。バンパーが忙しなく動く。ときおり、激しい雷鳴。闇に包まれてゆく林や町の向こうに、鮮やかな夕暮れの空が広がっていた。

 夜になった町に戻り、車のドアからレストランに駆け込む。エントランスの向こうは、奥内というよりも大きなホールに屋根がついているという感じで、風が四方に抜けて開放的だ。天井も高く、数百人は入れそうだが、今夜はテーブルの半分くらいの客数のようだ。ビュッフェスタイルでクメール料理が用意され、ホール前方にはまだ幕がおりているがステージがあり、最前列の端寄りに座る。

 料理のメニューは、サラダから魚や肉料理、麺料理、デザートと品数も豊富だ。果物といえば、実は旅行前からマンゴーを期待していたのだが、ちょうどシーズンが終わってしまったといことでちょっと残念だった。魚はトレンサップ湖で獲れた淡水魚で、甘酸っぱい味付けで食べやすかった。生臭さを取るために念入りに塩洗いをするそうだ。もちろんスパイスは日本食よりは効いているが、辛すぎて食べづらいということはない。トマトやココナッツや香草も用いられているが、カンボジア料理でよく使われるのは「トック・トレイ(魚醤)」や「ブラホック」だということで、匂いに敏感な人ならちょっと閉口したかもしれないが、まあ私は大丈夫だった。

 それよりも、青胡椒の粒が挽かれることなく煮込まれたりして入っているのには驚かされた。カンボジアは古くから胡椒の産地であり、ふんだんに使われているその香りは強く、もちろんスパイシーなのだが、プチプチと口の中で弾ける胡椒の粒の食感は癖になりそうだった。私が日本で普段口にしているのは黒や白の胡椒だが、どれも同じ胡椒で、収穫の時期によって用途が違い、熟す前の実である青胡椒は、野菜のように使われることが多いようだ。

 

                         (【21】に続く)

 

| エッセイ | 12:00 | - | -
『アンコールワットな日々』 【18】夕焼けとスコールのあとで

 アンコールワットの西門は,東門とは打って変わって静かだ。そこで待っていたTさんのバンに乗り込み、プレ・ループに行く。

 「プレ・ループ」は古代クメール語で「人形(ひとがた)まわし」の意だという。主にレンガとラテライトでできていて、ピラミッド型の建物はバンテアイスレイのように赤い。961年に東メボンの建立者であるラージェンドラヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教の寺院として建てられた。環濠はなく、門を入ると、火葬の儀式が行われたという石槽がある。アンコール・ワットに比べるとかなり小ぶりに感じられるが、最上階に上がると、四方にジャングルを見渡せ、眺めはいい。中央祠堂を囲むそのあまり広くはない回廊に、白人にアジア系の人,老若男女が混ぜ合わさって、散らばっている。時折小声で話しはしているものの、不思議な静けさのまま、糸人は西を向いて「ジャングルに沈む夕陽」を待っている。残念ながら雲が空を覆っているが、夕刻の陽射しが人々と遺跡をオレンジ色に染めている。カメラやスマホを手にしている人もいたが、この時間と空間をただ味わっているような人もいる。世界を凝縮したように多種多様な人間が静かに混在している様に、思わず「ピースフルだね」と思わず小さく口走ってしまったのだが、それは隣に座っていたタトゥーをした白人男性の失笑を買ったようだ。その若者は元軍人か、あるいは休暇中の現役の軍人だったのかもしれない。それとも彼はジャングルの景色にカンボジアやベトナムの内戦のことを重ねて見ていたのか。平和という言葉はその対語である戦争と繋がる。「海外では政治と宗教についてはタブー」という、旅のしおりの注意事項が頭をかすめる。

 アンコール・ワットの日の出の時もそうだったが、このプレ・ループからの夕陽も、肉眼では見えたような気がしなかった。けれども、帰ってから見たカメラには、雲から顔をのぞかせている輝く太陽が写り、ジャングルと雲の境界には仄かな夕焼けが広がっていた。私たち自身が夕焼けの中にいたから、それはその時眼には見えなかったのか。

 まだ残っている人もいたが、空気の湿度にスコールの気配を感じて、早めに帰ろうと私たちが最上階からの階段を降りていたら、若い白人女系に「日本人ですか?」と、笑顔で声を掛けられた。私たちの会話の日本語が耳に入ったようだ。アニメなどを通して日本に好意を抱いている人なのか。「ええ、そうです」と笑顔を返したが、時間があれば、そんな人たちとも話をしてみたかった。

 

                                                           (【19】に続く)

| エッセイ | 14:44 | - | -
『アンコール・ワットな日々』【17】

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                                   photo by J,Kawai

| エッセイ | 19:54 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【16】弾痕とレリーフの叙事詩――再びアンコール・ワットへ 

 仄暗い第二回廊に、そろばんの玉を連ねたような連子窓から、明るく陽が射し込んでいる。華美な装飾はなく、所々に頭部を失われた神々の座像や立像などがある。けれど、その内部を過ぎてから眺めればこそ、第二回廊の外壁のデヴァターたちの華やかさも際立つのだろう。

 伽藍に住む舞姫たちをモデルにしたとも言われるその女神像の浮彫は、顔立ちもポーズも様々で、いくら見ても見飽きない。どの女神も腰巻を巻いているくらいの衣装で、すらりとした肢体に椀のように丸い乳房というのは同じだが、髪型や髪飾り、装飾品や表情や手指や足のポーズなど様々だ。なかには彫りが途中で、その制作過程を見て取れるものもある。また、後年修復されたレリーフの部分は、薄い灰色なので見た目にもすぐわかる。

 ところで、この時、娘のJは白黒モードでも写真を撮っていた。帰国してからそれらを見て改めて思ったことだが、モノクロの画像というのは不思議だ。第二回廊の外壁自体が灰色ではあったのだが、白と黒の間に広がる、数え切れないグレーのヴァリエーションがそこにはある。それは色彩の奥の形であり、瞬間の奥の時間の流れのようなもの。

 モノクロに写し出されたそれらの尖塔やデヴァター、私を含めた観光客たち、高い塔の巣に帰る鳥やその向こうの雲と空。そういった全てから、そこにあることの不思議さがにじみ出ているように感じてしまうのは、色彩を消してシャッターを切るということが、見るという行為を無化してしまうからだろうか。

 私たちはそこにかつてあったものをたぐり寄せるようにして、それらの写真を見る。そして既に、私たちよりもはるかに長く、過去の時間の中で物としての時間を過ごしてきた、それら石でできた遺跡たちは、モノクロに彩られた世界の中で、その存在感をより一層増してゆくようにも思えるのである。

 

| エッセイ | 11:47 | - | -
『アンコール・ワットな日々』 【15】弾痕とレリーフの叙事詩――再びアンコール・ワットへ

 中央祠堂を囲む三つの回廊の始まりである第一回廊は、時計回りの逆にめぐってゆく。神話などをモチーフにしたレリーフの彫りは浅いが、長い回廊の壁一面に、人や生き物の動きをリアルに再現するような繊細な線でびっしりと描かれている。かつては金箔を漆で留めて彩色されていたそうで、所々に微かにその名残が見える。制作年代は西面から東面の南半分までが12世紀半ばで、東面の北半分と北面は16世紀半ばだという。

 西面南側は古代インド叙事詩『マハーバーラタ』から「カラウヴァ族とバーンタヴァ族の戦い」。西面北側にはヒンドゥー教の聖典『ラーマーヤナ』の「ランカー島の戦い」が51メートルにわたって描かれている。サルの王「ハヌマーン」の姿も見える。南面西側は「スーリヤヴァルマン2世と行進する軍隊」、南面東側は「天国と地獄の図」。東面南側にはヒンドゥー教の天地創造の神話である「乳海撹拌」が描かれている。左に阿修羅たち、右に神々が蛇神ナーガを曳き合う様は、壁の長さを存分に生かして迫力がある。綱引きの中心で指揮をとっているのがヴィシュヌ神で、綱引きの上空では水の妖精である天女アプサラスたちがしなやかに舞っている。綱引きの足元にはかき回された海の生き物たちが描かれている。

 実を言うと、こんなふうにそれらの壁画を味わったように書いているのも、四日目に再々度アンコール・ワットに行けたからで、その時の印象もここには混ざっている。Mさんの説明を聞きながら、どちらかと言うと歩くスピードでそれらを見て回っていたので、かすめ見ていた、よく言えば、物語や戦が進行するように眺めていたともいえる。それでもMさんは私たちのスローな歩調に合わせてくれていたし、このツアーがもしピーク時だったら、とてもそんなわがままは言っていられないはずである。四日目の午後に、三度目にJと二人で来た時には、第一回廊の全長760メートルにおよぶ東西南北四面のレリーフを、ゆっくりと見て、写真を撮ることができた。Mさんと一緒の時にはショートカットしたエリアも回った。東面北側には「ヴィシュヌ神の悪魔の戦争の図」、北面東側は「クリシュナの図」、北面西側は「神対アシュラの図」。16世紀半ばにアンコール・ワットを再発見したカンチャン1世が指示して完成させたというそれらの彫りは、たしかにいくぶん粗く、印象も薄いのかもしれない。シーズンによるのか、時間帯によるのか、その時の北面エリアは、観光客もほとんど見当たらず、まるで時間が停まっているように静かだった。経蔵の前の草の中を、黄色い袈裟を着た二人の僧侶が横切っていった。       

                              (【16】に続く)

| エッセイ | 16:09 | - | trackbacks(0)
『アンコールワットな日々』【14】弾痕とレリーフの叙事詩――再びアンコール・ワットへ

 昼食後、再びアンコール・ワットへ。早朝には第三回廊に行くためにショートカットしたが、今度はゆっくりと第一回廊などを見る。西塔門の南側に立派なヴィシュヌ神の立像があった。花や蝋燭が立てられ、賽銭箱のようなものがあり、線香立てもある。こういった所では日本では手を合わせるのが習わしである。正月には参拝客で賑わうというこの寺院で崇められているだろうこの像の前で、靴を脱いで座り、手を合わせた。敬虔な気持ちだったが、写真に残っているその時の私たちの様子は、帰ってから見るとかなり気恥ずかしい。

 Mさんの指差す先を見ると、十字回廊に入る大塔門の柱に弾痕が残っていた。1970年頃から1993年に及ぶカンボジアの内戦時、政権を追われたクメール・ルージュ軍は1979年からアンコール・ワットを拠点とした。その時彼らによって仏像なども破壊されたという。ベトナムやカンボジアなどインドシナ半島で続いた戦禍のニュースは、かつて遠い国の出来事のように思えた。けれども、修復されつつあるとはいえ、こういった弾痕や頭部を失った仏像を目にすると、それらについて、もっと知らなければならないのではないか、と感じる。世界遺産の景色や建築の美しい表面の裏側、いやそういった過去の上にある、今目の前にあるものの意味。ショートステイの旅で消化するには、あまりに重く長い時間がそこにはあるだろう。カンボジアについて暗いイメージを持ってしまうのも、その内戦時の飢餓と虐殺によって、70万から200万人以上とも言われる人々が命を落としたからだ。けれども、それは歴史の中で繰り返されてきた過ち、いつどこの国でも同じように起こってもおかしくはない惨事、なのではないだろうか。ある一つの理想、もしくは強大な帝国を実現させるために、そこに生きている人々が踏みにじられていったならば。

 アンコール・ワットについて書くときには、やはりクメール・ルージュは避けて通れない。けれども、あまりに複雑な現代史を理解するには、それなりの時間が必要だろう。静かにたたずむ遺跡のただ中にも、ぽっかりと口を開けて流れている、かつての時間の重みと深さに慄いた、とだけ、今は記しておこう。

 

                               (【15】に続く)

 

         

| エッセイ | 13:33 | - | trackbacks(0)
『アンコール・ワットな日々』 【13】

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                           photo by J.Kawai

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