ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森
BODY AND SOUL

 

それはバド・パウエルの『ボディ・アンド・ソウル』で始まってゆく一日だった。

冷やかに湛えられた水面に、跳ね返す光のようなきらめく音たち。滑らかな水の肌の上を、移ろい漂ってゆく何かの色と形。形は影を追い、影は形に重なり、それらは駆け抜けてゆく。微睡みのなかで掠め見た、鮮やかなまでの記憶の襞のように。

(すべては夢だったのだ)目覚めた時、人は驚き、笑い声とともにそう呟く。けれどそれは、夢であるはずなのに、妙に温かく、そして痛々しい。

その日わたしは、それを繰り返し聞き続けた。彼と一緒に、わたしも見つめていた。ビルの谷間にある森の、湖の上に広がるひとつの空を。それはたぶん、夏の嵐の後の晴れ渡った空。雨と風に洗われて、ますます青みを増してゆくマリン・ブルー。そのただなかを、絹のヴェールを靡かせて過ぎてゆく雲。そしていまだ揺れ戦ぐ木立の燃え立つ葉陰に、ひっそりと腰をかけていた秋。

その日わたしたちは、灰色のざわめきに囲まれた、不思議なほどの静けさのなかで耳を澄ましていた。水紋のようにささめき寄せる、いくつもの声のような、風たちの気配を。

それらが揺れる水面に光のようにきらめき、漂い、遠い水底に沈んでいったその音を、わたしたちは聴いていた。そしてまるで

初めから何も無かったかのような静けさに、湖が立ち戻ってゆくその時まで、わたしたちはそこに佇んでいた。

| 既刊詩集『水車のめぐる家で』 | 21:06 | - | -