ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森
白い朝
そしてその部屋で 彼女は一晩を過ごす
誰も彼女を知らない
誰も彼女を追わない
彼女はゆっくりとシャワーを浴びるだろう
流れてゆく 初夏の街の汗と埃
半裸のまま 鏡の前に佇む彼女の窓の下を
うねってゆく
車の忙しない光の帯
夕暮れの十字路を 彼女はしばらく見つめるだろう
そこにいない誰かを見つめるように
停まっては すれ違ってゆく何かの影を見つめるように
ベッドに横になり 彼女は一冊の本を手に取る
銃声のとどろく 遠い街の男が書いた
失われた 愛の物語
声に出してその一行を読む
それが その部屋で発せられる唯一の声
聞くことのできない男の言葉をなぞる 女の声が
ホテルの壁を 窓ガラスを 冷たいドアを低く這う
そして 明かりを消せば
そこにいる彼女は誰でもなくなり
痕跡は消える
時間は消えて
夜がわななき始める
充血した眼差しの
サイレンの狂奔する街
いくつもの眠りのなかの 眠れない夜をわたって
目覚めれば
白い光のなか
鏡に向かってブラシを手にしているのは
北の国の 青い眼をした女だろう

 

| 既刊詩集『眠る理由』 | 16:32 | - | trackbacks(0)