ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森
たとえば一人の人間が

たとえば一人の人間が老いて亡くなったとき

薄っぺらな戸籍謄本に引かれた線

名前の後に記された二行か三行の文字が

かつて男であり あるいは女であったその人の

六十年や八十数年の一生の

どれだけを語ることができるのか

そしてまたそこに

語られることのなかった

どんな事実が秘められているのか

 

たとえば棚の奥に紙に包まれて

紙魚もつけず 欠けることもなく仕舞われていた蓋つきの茶碗が

その家のどんな食卓を彩ったのか

けれどかつてその台所には子どもたちの賑やかな声は響かず

病院で一人最期の時を迎えたのかもしれず

盆や正月 うれしい時や悲しいとき

その家に何人の客たちが 幾度訪れただろう

 

たとえば

鍵のかかった革カバンの中に

今も仕舞われ続けているもの

もはや訪れることのない

どこかの町の忘れがたい空気なのか

いつか旅立とうとした遠い町の

古びた一枚の地図なのか

 

結城紬の羽織 笛吹ケットル ルーペ 振り子の柱時計

使われたもの 使われなかったもの

けれど 寒々とした部屋に

つかのま立ち込め ひそやかに流れてゆく

それら〔物たち〕のひとつの時間

 

たとえば あなたが今手にしている

青いインクの万年筆

一年に一度 特別な日にだけ打ち鳴らすワイングラスとか

あるいは踵が少し擦り切れてきた茶色のローファー

紙の束に無造作に挿まれて色褪せてゆく 一枚の写真とか

 

 

 

 

 

| 既刊詩集『スクラップ―に捧ぐ』 | 13:40 | - | trackbacks(0)