ニライカナイ 〜川井豊子の詩の記憶の森

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[『旅する男の物語』 【3】渦巻く耳とハチドリの羽ばたき

 ――ある夜、T氏が語った。

 

3 渦巻く耳とハチドリの羽ばたき

 

その日チチカカ湖の湖面は

ゆらめく銀を溶かしたように凪いでいた

標高四千メートルの 聳える峰の上に広がる湖

雲の群れを端に吹き払った空は澄み渡り

葦(トトラ)の上に 人々の頬に 強い陽射しは降り注いだ

 

微かな漣だけが過ぎてゆく

その静けさのなかでは

遠い街の喧騒も 嘘のように霞んでゆく

大使公邸の白い塀で触れた銃弾の痕や

スペイン人たちが建てた荘厳な聖堂やキリスト像

そしてその地下に広がる

虐げられた原住民たちの悲鳴の黒い残響も

青と緑のアラベスクの壁や

博物館に飾られた鮮やかな土器の数々

花や果実 クイの丸焼きに彩られたテーブルも

すべては 目の前の湖面を過ぎてゆく

微かな風が立てる漣のような 一瞬の幻

ひとつの時から放たれた

幾本もの矢の跡 なのではないか

かつてこの湖畔に

髭を生やした白い神がたたずんだときから

世界は目に見えない螺旋の輪を

描き続けてきたのではないのか

アンデスの峰の間に浮かぶ都市に

かつて生きていた人々の祈りの声や

死の静寂もまた

遠いこだまとなって

その面で 銀色に揺れているのだとしたら

 

語る男の声は

見えない点となって

夜のなかへ消えていった

眠る女のやわらかな三半規管の渦巻きの奥では

一羽のハチドリが瑠璃色となって羽ばたいていた

| 未刊詩集 | 15:06 | - | trackbacks(0)
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